工藤公康

工藤公康

■工藤公康(くどう きみやす)

 

□肩書き

 野球選手(10年引退)

 野球指導者

 

□所属

 西武ライオンズ(82年〜94年)

 福岡ダイエーホークス(95年〜99年)

 読売ジャイアンツ(00年〜06年)

 横浜ベイスターズ(07年〜09年)

 福岡ソフトバンクホークス(15年〜21年)※監督

 

□本名

 工藤公康

 

□生年

 1963(昭和38)05.05(牡牛座/O型)

 

□出身地

 愛知県豊明市

 

□出身校

 名古屋電気高校

 

□略歴(満年齢)

 82年(19歳)ドラフト6位で西武ライオンズに入団。

 95年(32歳)FAで福岡ダイエーホークスに移籍。

 00年(37歳)FAで読売ジャイアンツに移籍。

 15年(52歳)福岡ソフトバンクホークスの監督に就任。

 ※入団、移籍は野球シーズン年度

 ※通算成績:

      635試合、224勝142敗3S、防御率3.45、2859奪三振

 ※主なタイトル・表彰:

  最優秀防御率4回、最高勝率3回、最多奪三振2回、

      MVP2回、ベストナイン3回、ゴールデングラブ賞3回

 ※主な出演:

  ドラマ「ママが生きた証」「嵐旅館」

  テレビ「関口宏の東京フレンドパーク」「報道ステーション」「GET SPORTS」

 

□趣味

 気功

 

□サイズ

 176㎝

 

□特記事項

・長男は工藤阿須加

・長女は工藤遥加

・日本シリーズでサヨナラヒット


■工藤公康

 

□幼少時代〜

・父親は市バスの運転手。

・男ばかりの5人兄弟の4番目。※弟は腹違い

・家は裕福ではなかった。食べ物に困る事があった。

・子供の頃、近くの野山を駆け回って遊び、野イチゴや栗を拾った。

・父親は厳格な九州男児だった。

・6歳の頃、父親が再婚。

・小学校低学年の頃、巨人が負けると父親が家族に当り散らすので野球が嫌いだった。

・小学校低学年の頃、父親に言われて無理矢理野球をやらされた。

 草野球でキャッチャーをしていた父親のキャッチボールの相手を無理矢理やらされた。

 父親が構えたミットに投げられないと父親に殴られた。

・小学校時代、顧問の先生に強引に勧誘されて野球クラブに入った。

・中学時代、強肩だったので顧問の先生に強引に勧誘されてハンドボール部から野球部に転部。

・父親に言われて冬にTシャツで外でシャドーピッチングを2〜3時間やらされた。

 自分からやめる事は許されなかった。寒さに耐えるには体を動かし続けるしかなかった。

・他の兄弟は父親の厳しさについていけずに途中で野球をやめた。

・父親と離れて暮らしたかったので寮生活になる高校を選んだ。

・高校時代、河合奈保子の大ファンだった。

 打席に立つ時にブラスバンドに河合奈保子の曲を演奏して貰った。

・高校時代、先輩からイジメられが父親にさんざんしごかれた免疫があったので耐えられた。

・高3の時、甲子園でベスト4。


■工藤公康

 

□私生活

・好物…おろし鍋。バームクーヘン。わらび餅。

・若い頃は大酒飲みだった。

 勝っては浮かれて飲み負けては憂さをはらす為にガンガン飲んでいた。 

 ビールを水がわりで一晩にウイスキーを3本あけていた。

   朝まで飲んで徹夜で先発して完投した事があった。

 酒の飲み過ぎで肝機能障害を患った(=86年)。

・健康法…玄米。雑穀。薬草風呂。バランスボール(インナーマッスル強化)。

・持病…左肘痛。

・長男誕生をきっかけに肉体改造に取り組み始めた。

 自宅に高価なトレーニング機器を買い入れて暇さえあればトレーニング。

 妻と一緒に運動学、生理学、免疫学などの専門書を読み漁った。

 少しでも気になる事があると知り合いの大学教授に相談。

 トレーナーと個人契約を結んで自らを実験台に新しいトレーニングを試した。

・夏場は最低10時間は睡眠を取った。

・好きなミュージシャン…CHAGE&ASKA。

・宝物…200勝記念にチームメイトがプレゼントしてくれた腕時計。

・成績が悪いと妻の勧めでゲン直しに何度も引っ越しをした。

・愛車はセルシオ(=03年現在)。

・父親が他界(=11年)。

・「家族と野球のどちらかを選べ」と言われたら家族を選ぶ。

・妻が栄養管理を徹底的にやってくれる。


■工藤公康

 

□人間関係

・薬丸裕英…友人。若い頃はよく一緒に飲んだ。

・真田広之、中井貴一、佐藤浩市、東山紀之…友人。

・吉村偵章、金村義明、槙原寛己…プロ野球同期生(同い年)。

・江夏豊…江夏が西武在籍中に「ピッチングの極意はアウトコース低めだ」と教えられ、

 ひたすらそれを実践した。

・広岡達朗…西武に入団した時の監督。工藤を「カーブだけでメシが食える」と評した。

・長嶋茂雄…巨人に移籍した時の監督。

 長嶋から「男の花道を飾ってほしい」と誘われて巨人入団を決めた。

・雅子…?年結婚。

・子供:

 長男…工藤阿須加。91.08.01誕生。俳優。

 次女…工藤遥加。92年誕生。プロゴルファー(12年ツアーデビュー)。

 三女…阿弥香。94年誕生。

 四女…阿偉。95年誕生。

 次男…拓也。00年誕生。

 ※長男から三女まで年子


■工藤公康

 

□エピソードなど

・プロ入り当初はプロでやって行く自信がなかった。

・若い頃、試合後のお立ち台で冗談を連発して「新人類」と呼ばれた。

・3年目のオフにアメリカの教育リーグに参加してメジャーを目指す選手に刺激を受けた。

・若い頃はピンチになると何も考えずにストレートを真ん中高めに投げていた。

・西武在籍中に日本シリーズに8回優勝。

・2年連続日本シリーズMVP(=86年、87年)。

・日本シリーズでサヨナラヒット(=86年広島戦)。

 0勝3敗1分の後がない状況で迎えた第5戦、1-1の延長10回から登板、

 12回まで無失点に抑えて12回裏にサヨナラヒット。

 その後西武が3連勝して日本一。第8戦で途中登板した時に脚が震えた。

・87年日本シリーズ第6戦の優勝決定後、ひとりだけ胴上げに参加せず、 

 テレビカメラに向かって万歳とVサインを繰り返した。

 工藤が始めたこのパフォーマンスはその後当たり前のように行われるようになった。

・5年連続2ケタ勝利(=91年〜95年)。

 91年〜93年の3年間で42勝11敗。93年は16勝3敗で最高勝率。

・93年オフの契約更改で球団から1億8000万円の提示を受けるが、

 2000万円を返上してファンサービスに使って欲しいと要望。

・バッターひとりひとりに関する詳細なデータを徹底的に分析して配球を考える。

・普段の生活では左手は使わず、サインも右手で書いた。

・自分の成績が0勝でもチームが優勝する方が良いと思っていた。

・西武、ダイエー、巨人で日本一になって「優勝請負人」と呼ばれた。

・野球が本当に好きになったのは35歳を過ぎてからだった。

・200勝を達成した試合でプロ入り初ホームラン(=04.08.17)。

 41歳での200勝達成は史上最年長記録。

 自費で製作した200勝記念グッズをチームメイト、スタッフ、知人に配った。

・史上2人目の42歳での完投勝利(=05年)。

・引退後はアカデミーを作って子供に野球を教えたいと思っている。

・筑波大学大学院人間総合科学研究所に入学(=14年)。

・自分が所属するリーグの全試合のビデオを観て情報収集する(現役時代から続けている)。

・監督1年目にパリーグ史上最速でリーグ優勝(=15年)。

   パリーグ5球団全てに大きく勝ち越して完全優勝。

・球団史上最速で監督として400勝(=19年)。

・ホークス監督在任7年間でリーグ優勝3回、日本シリーズ優勝7回(=15年〜21年)。

凡例:20.01現在=2020年1月現在