■萩本欽一(はぎもと きんいち)
□肩書き
芸人 タレント
□所属コンビ
コント55号(66年結成)
□本名
萩本欽一
□愛称
大将
□生年
1941(昭和16)05.07(牡牛座/A型)
□出身地
東京都台東区
□出身校
浦和市立高砂小学校→台東区立西町小学校
台東区立御徒町中学校
私立駒込高校
駒沢大学仏教学部
□略歴(満年齢)
75年(34歳)テレビ「欽ドン!」出演。
76年(35歳)テレビ「欽ちゃんのどこまでやるの!」出演。
82年(41歳)テレビ「週刊欽曜日」出演。
※他の主な出演:
映画 「手」「がんばれ!ベアーズ大旋風」「月」
テレビ「スター誕生!」「ぴったしカンカン」「欽ちゃんの全日本仮想大賞」
CM 「サクラカラー24」「三菱電機 霧ヶ峰」「日本コカコーラ ジョージア」
□趣味
絵画(墨絵) 園芸 麻雀 競馬 野球観戦
□特技
将棋
□サイズ
165㎝
■萩本欽一
□幼少時代〜
・父親はカメラの製造販売会社を経営。
当時は珍しかった小型カメラの製造をてがけていた。
・6人きょうだいの三男(下から2番目)。兄が2人、姉が2人、弟がいる。
・子供の頃、大きな洋館風の家に住んでいた。お手伝いさんが2人いた。
・小1から小3まで音楽以外はオール5。毎年級長をやっていた。
・小学校時代、引っ込み思案で人と接するのが苦手だった。
「起立、礼」の掛け声を出すと顔が火照った。
授業中に手を挙げる事が出来なかった。
担任の先生から「オギモト」と呼ばれるのを訂正できなかった。
・小学校時代、母親に「教科書を読んでおくと明日の授業が楽よ」と乗せられて予習した。
「勉強しろ」と言われた事は一度もなかった。
・小学校時代、将来画家になりたいと思っていた。
・小学校時代、転校するとイジメられないようにガキ大将に追従した。
・小5の時に父親の会社が倒産して生活は極貧になった。
家を手放して6畳と4畳半の長屋に一家5人で住んだ。
満足に食事を食べられない事があった。
家におしかてきた借金取りに母親が三和土に顔を押し付けて謝っているのを見て
「金持ちになって10年後に母親に家を建ててあげる」と決意した。
・中学時代、野球部。全然打てないのでプロ野球選手になる事を諦めた。
・中学卒業時にデン助(大宮敏充)に弟子入りを志願、
「これからは芸人も知識が必要だから高校くらいは出ておいた方が良い」と言われた。
・高校時代、学費や生活費を稼ぐ為に新聞配達などのアルバイトをした。
・高校時代、毎日映画館に通ってチャップリンの映画を観た。
・高校を卒業する頃、生活苦で一家が解散(その後15年間家族と音信不通だった)。
■萩本欽一
□私生活①
・好物…手巻き寿司。ラーメン。焼きそば。
ピーナツサンド。あんドーナツ。ハムエッグ。
ウニ。シャケ缶。納豆。あんこ。辛いもの。
・嫌いな食べ物…野菜サラダ。
・気にいると同じモノを食べ続ける。
ウニを1年半毎日食べ続けた事がある。
・ほとんど外食しない。
・酒は飲めない。
・タバコを吸う(=15.10現在)。1日40〜60本吸う(=07.05現在)。
・湯船に漬かるのが嫌い。冬でもシャワーでも済ませる。
温泉宿でシャワーを使うのが好き。
・髪の毛を乾かすのにドヤイヤーを使わず、
クルマで移動中に窓を開けて風を当てて乾かす。
・自宅にいる時はパジャマにどてらで過ごす。
・トランプの大貧民、七ならべが好き。
・ネットで将棋や麻雀をする。
・自宅に出たゴキブリに約半年エサをあげた事がある。
・自宅の庭で赤い花を栽培(赤い花しか買わない)。
・住んでいる所…神奈川県二宮町(=98.01現在)。
・28歳の時から建て売り住宅に住んでいる(=98.01現在)。
・近所の人から騒音の苦情が来ると引っ越す。
■萩本欽一
□私生活②
・いきつけ…お好み焼き「松浪」(人形町)。「金寿司」(祖師谷)。
・マッサージなど他人から身体を触られるのが嫌い。
・プライベートで運を使いたくないのでゴルフに行って雨が降ってくると安心する。
快晴だったので途中で引き返した事がある。
・競走馬を多数所有。
パリアツチ…初めて所有した馬。デビュー3連勝でダービー出場(9位)。
アンブラスモア…通算10勝。
※中央競馬で通算44勝(萩本企画名義を含む=20.05.26現在)
・70歳の頃に初めてファミレスに行ったらしい。
・70歳を過ぎて初めてひとりで新幹線に乗ったらしい。
・好きな言葉…「春風駘蕩」。
・子供がオール5の成績を取った時にご褒美として100万円をあげようとしたが、
子供がびびって受け取らなかったらしい。
・タレント活動休業中に大学進学を目指して予備校(河合塾)の夏期講習に通った。
・社会人入試で駒沢大学仏教学部に入学(=15年)。
認知症対策で勉強を始めた。
100点を取る自信がない科目はテストを受けなかった。
※所属事務所が自主退学した事を発表(=19.06.07)
・「いい人」と見られるのが嫌い。
・素は人見知り。人前で何かをするのが苦手。
人前で食事をしない。人前でトイレに行かない。
・自宅に人を呼ぶのが苦手。
・母親は肺炎で他界(享年101=08年)。
■萩本欽一
□人間関係①
・鹿取義隆…親友。茨城ゴールデンゴールズのヘッドコーチ。
・間寛平…友人。吉本をやめた時に萩本に弟子入りを志願した。
間の妻は萩本の大ファン(小学校の頃からずっと追っかけをしていて、
萩本の結婚が発覚した時にショックで40℃の熱を出して10日間寝込んだ)。
・細川たかし…友人。「たかし」「大将」と呼びあう仲。
「北酒場」は「欽ちゃんのどこまでやるの!」で歌ってヒットした。
・堀内孝雄…友人。「欽ちゃんのどこまでやるの!」のテーマ曲を作曲。
堀内から「大将」という歌をプレゼント(自分の葬式ではこの曲を流すように遺言)。
堀内は萩本自作の墨絵を宝物にしている。堀内にトークに関してアドバイスした。
・長門裕之…友人。
・坂上二郎…コント55号の相方。
結成当初は萩本がボケで坂上がツッコミで全然ウケなかった。
・山口良一、西山浩司、長江健次…「欽ドン! 良い子悪い子普通の子」に出演。
ユニット・イモ欽トリオとしてリリースした「ハイスクールララバイ」がヒット。
山口は中学時代にコント55号の大ファンで生徒手帳に写真を入れていた。
西山は萩本家に4年間居候していた。
・柳葉敏郎…「欽ドン! 良い子悪い子普通の子」に出演。
・見栄晴…「欽ちゃんのどこまでやるの!」に萩本の息子役で出演。
萩本に宅に寝泊りしてコメディアンとしての基礎訓練を受けた。
・風見しんご…「欽ちゃんの週刊金曜日」に出演。
「お前は動きにキレがないから鳩を見て勉強しろ」とアドバイスした。
・佐藤B作…「欽ちゃんの週刊金曜日」に出演。
・小堺一機、関根勤…クレコ・グレコとして「欽ちゃんのどこまでやるの!」に出演。
小堺は萩本のモノマネが得意。
・斉藤清六…「欽ちゃんのどこまでやるの!」に出演。元付き人。
・勝俣州和…「欽きらリン530!」に出演。
・辰巳琢郎…「ドキド欽ちゃんスピリッツ」に出演。
萩本に芝居の基本を徹底的にたたき込まれた。
・前川清…萩本の番組にレギュラー出演。
共同で所有する競争馬アンブラスモアが吾妻小富士オープンで勝利(=98.06.21)。
・渡哲也…萩本が監督した短編映画「港」に主演。
■萩本欽一
□人間関係②
・高橋真美、高部知子、倉沢敦美
…「欽ちゃんのどこまでやるの!」に萩本の娘役で出演。
わらべとしてリリースした「めだかの兄妹」「もしも明日が…」がヒット。
・真屋順子…「欽ちゃんのどこまでやるの!」に萩本の妻役で出演。
・生田悦子、松居直美…「欽ドン!良い子悪い子普通の子」に出演。
・萬田久子…「欽ちゃんのどこまでやるの!」に出演。
・香坂みゆき…「欽ドン!」にマスコットガールとして出演。
・はしのえみ…欽ちゃん劇団の1期生。
CHA-CHAの妹分ユニットCHU-CHUのメンバー。
・ダウンタウン…「欽ちゃんの仮装大賞」に出場して合格(=90年)。
・車だん吉…一番弟子。
・天野ひろゆき…萩本欽一に憧れて浅井企画に入った。
・東貴博、深沢邦之…萩本が主宰するお笑い養成塾・欽塾に在籍。
・あさりど、エネルギー…欽ちゃん劇団出身。
・肥後克広…萩本に弟子入りを志願した。
・片岡安祐美…茨城ゴールデンゴールズ所属。
・糸井重里…茨城ゴールデンゴールズのセネラルアドバイザー。
・東八郎…師匠。東洋劇場の先輩。東からツッコミを学んだ。
「欽ちゃん走り」はもともと東の芸だった。※88年他界
・池信一…師匠。
・澄子…浅草のダンサー。76年結婚。2歳年上。※20年8月他界
新人コメディアンと東洋劇場の看板女優として出会って同棲、
「あなたはコメディアンとして有名になると思う。
私が面倒をみるから芸を磨きなさい」と言われ、
感激して結婚を申込むが断られ、コント55号として売れた後に再会。
長男誕生後に入籍。
・子供:
長男…一童。
次男…越史。
三男…征九郎。
■萩本欽一
□エピソードなど①
・高校卒業後、コメディアン志望で浅草の東洋劇場に入る。
・東洋劇場時代、近所の豆腐屋の2階の窓がない3畳間に間借り、
配達を手伝って家賃をタダにして貰っていた。
・東洋劇場時代、先輩芸人の洗濯やお使いや荷物持ちをして夕食をおごって貰っていた。
・先輩のアドバイスでリズム感向上の為にドラムを1年間習った。
1年後にドラマーとしてスカウトされた。
・TBS「おれの番だ!」に端役で出演(=63年)。
・劇団浅草新喜劇を旗揚げ(=65年)。
・お金がない時は逆に無駄使いをした。
やっとためた50万円を競馬で1日でスッた事があった。
・とんかつ屋でアルバイトをした事がある。
・コント55号結成前、地方のホテルの営業で細々と食いつないでいた。
・あがり性。
テレビの生コマーシャルの仕事で連続19回NGを出した。
あがり性を克服するために浅草のフランス座に武者修業に行って坂上二郎と知り合った。
・行き詰まって自殺を考えていた時期に坂上からコンビ結成の電話がかかってきた。
・コント55号のコントは事前に坂上に内容を教えずにアドリブでやる事が多かった。
萩本の無茶な要求がどんどんエスカレートしていくのが基本パターン。
坂上が熱演でかいていると思われていた汗は実は冷や汗だった。
萩本の激しい動きがウリ(舞台上で飛び跳ねる、登場と同時に坂上に飛び蹴り、など)。
動きが激しすぎてよくテレビカメラのフレームからはみ出した。
・コント55号として売れ始めた頃にファンレターが1日200通来た。
・生放送の帯番組「お昼のゴールデンショー」で毎日コント55号の新作コントを披露。
・コント55号の全盛時代、月に90本テレビに出演。
布団でちゃんと寝たのは週に9時間(3時間を3回)。
渋滞で生放送に遅刻しそうになってクルマを降りて首都高を走った事があった。
・コント55号の全盛時代、週刊誌に「萩本に殴られた」と虚偽の記事が掲載され、
「死んで分からせよう」と熱海の錦ヶ浦の崖っぷちまで行って寸前で思いとどまった。
・コント55号のコント総数は約1800本。
・テレビ「コント55号! 裏番組をブッ飛ばせ」は女の子が脱いで行く野球拳が大人気、
視聴率で大河ドラマを上回ったが低俗番組のレッテルを貼られて1年で終了。
・主なギャグ…「なんでそうなるの」。
・着陸に失敗した鳩の動きを参考に独自のコケ方を開発した。
・映画「俺は眠たかった」を監督(初監督作品=70年)。
・シングル「何処かにお前が」をリリース(映画「手」主題歌)。
■萩本欽一
□エピソードなど②
・「第1回24時間テレビ」の司会を務めた(=78年)。
・最初に司会の仕事のオファーが来た時に「僕には進行はできません」と言うと、
進行を担当する女性の横で萩本は好き勝手に話す、というスタイルになった。
それ以前の日本にテレビ番組には「司会アシスタント」は存在しなかったらしい。
・「スター誕生!」「オールスター家族対抗歌合戦」「欽ちゃんの仮装大賞」の司会を担当。
・「スター誕生!」で合格者なしだった時の決め台詞「バンザーイ、ナシよ」は流行語になった。
・「欽どこ」は「とにかく新しい事に挑戦しよう」と会議をスタジオでやり、
カメラマンがピントを合わせやすいようにセットの奥行きを1mにした。
・企画・出演した3番組が同時にヒットして「視聴率100%の男」と呼ばれた(=81年)。
※「欽ドン!」「欽どこ」「週刊欽曜日」
・新番組を始める時、自分も含めた出演者とスタッフ全員でアミダくじをやり、
✕をひいた人は「今は運を持ってないから」と外れて貰った。
・自分の名前がついた番組は演出を担当して徹底的にリハーサルする。
・有名スターと共演すると自分があがってしまうので素人に近い人を起用した。
・引退を宣言して「欽ちゃんの全日本仮想大賞」以外の全番組を降番(=85年)。
・欽ちゃん劇団を旗揚げ(=91年)。
・欽ちゃんのシネマジャックをプロデュース(=93年)。
1本15分の短篇映画の4本立てで1本300円の料金を観た本数だけ払うシステム。
・朝ドラ「ひまわり」のナレーションを担当(=96年)。
・長野五輪閉会式で司会を務めた(=98年)。
・舞台「萩本欽一奮闘喜劇公演」で原案・演出・主演(ボケ役に初挑戦=98年)。
・著書「まだ運はあるか」を出版(=99年)。
・著書「快話術」を出版(=01年)。
・「欽ちゃんのどこまでやるの」が正月特番で16年ぶりに復活(=02年)。
・野球のクラブチーム「茨城ゴールデンゴールズ」を設立して監督に就任(=05年)。
所属選手に地元・茨城で農作業を手伝わせた。
試合前の練習中にマイクパフォーマンス。
全日本クラブ選手権優勝(=07年)。
・「24時間テレビ」チャリティーマラソン完走(70㎞=07年)。
栄養補給ドリンクとしてめんつゆを飲んだ。
沿道で応援してくれた4000人以上の人とハイタッチした
・手掛ける舞台は公演途中にストーリーを変えてしまう事がある。
・自宅を「誰だって波瀾爆笑」で公開(=11年5月1日放送分)。
・自宅で若手を育てるお笑い塾を開催。
・ニコニコ動画に「欽チャンネル」を開設(=15年)。
生放送「欽ちゃんのドーンとゴールド!」を放送。
・人生は「勝つか負けるか」ではなく「勝つか逃げるか」だと思っている。
やってみなければわからない勝負には挑戦しない。
凡例:19.01現在=2019年1月現在